月に1度、譲渡会が行われています。
場所は茨城県南部。
ぜひ、近郊にお住まいの猫ちゃんを家族に迎えることを検討している方
足を運んでみてください。
※ご来場の場合はマスクのご着用をお願いいたします。
どんな子が来るのかな〜?って興味がある方はこちらのブログをチェックしてみてくださいね。
https://ameblo.jp/maron-mama
さて、ご存知の方も多いと思うのですが
うちにいる子はすべて私が保護した子、またはそれに携わった子なんですよね。
せたじを保護して、実際にねこちゃんと住むようになってから
殺処分という言葉を知ったり、野良猫のサバイバルの現状を知ったり
たくさんの現実を知ることになったのですがね。
うちの5ニャンズのうちパトラ、麦じ、くぅは出会った時からすでに成猫。
いわゆる大人の猫ちゃんでした。
もう人に懐かないんじゃないか?と言われたりもして
毎回地域猫にする選択肢も視野に入れつつ、どうしてもそれが私にはできなくて
家の中に入れるかたちになりました。
でも、どうしても家の中に入れるには限度があって
せめて地域猫にという選択肢をとる人、そこに力を入れている人がいて
きっと、みんな断腸の思いでやってるんじゃないか想像しています。
でもふと時々思うんだけど、いつになったらこれって終わるの?
終わりはあるの?
蛇口の水は、しめなければいくら出口をしめたところで溢れてしまう。
じゃあ蛇口の水はどこから流れてくるの?
去勢避妊せずにご飯をあげる人、飼い猫を外飼いにすること
そしてブリーダーが新たな命を売買のために生み出すこと
生態販売する必要は果たしてあるのでしょうか。
これだけ溢れているのに。
殺さなければいけないほど溢れているのに。
保護活動している人は、日々命を選ばなければいけない現実があるのに。
誰かの断腸の思いの行く末にいる地域猫たちの「死に方」はほとんど変わらないと思います。 事故、虐待、喧嘩からの感染症、暑さや寒さからの消耗、ご飯をもらえなくなる場合もあると思う。 猫の体は変わったとしても、外の環境は何も変わらないのです。
それなのに、必死に保護活動をする人がいる傍らで
なぜまだ生み出すのでしょうか。
なぜまだお金で売買される猫ちゃんが必要なのでしょうか。
近くで里親を探す人がいると
私も限られた人脈だけど、声をかけるんだけど
「子猫から飼いたいから」
「できるだけ病気にならない子がほしいから」
「見た目が汚いから」
実際に言われた言葉です。
でもね。病気なんてそんなの一緒に生活してみないとわからない。
子猫のかわいさとか、成猫のかわいさとか、そんなのない。
真摯に向き合えばかわいくなるのです。
他人と過ごすことと同じ。
相性の問題で、そこに子猫も成猫も関係ない。
そもそもペットと言う言葉も好きじゃない。
ペットという言葉で、無意識に支配したり下にみる行為は間違っていると思うし
一緒に暮らすということは家族を迎えることだと私は思っているからね。
だから、一緒に暮らす子を引越し先では飼えないから断腸の思いで手放すというTwitterが時々流れてくると、それは違うよって思ってしまう。
断腸の思いをするのは都合に振り回される動物です。 (断腸の思い:はらわたがちぎれるほど悲しくつらい)
猫と暮らす私たちは、最期まで看取る事を想像しながら、自分に万が一の事があった時、誰が引き取るのかまで視野に入れておかなければいけないのです。
こんな話をするとね、大抵頭がちょっとおかしい人だって思われたり言われたりするんだけど‥
先日、京都の動物保護ボランティアの自宅内で犬や猫の死骸が溢れていたという悲しいニュースが耳に入ってきた。
この短い記事でしか読んでないので、きっと事件のほんの一部しか私は知らないと思う。
だけど、その経過を辿ると、もっとはやくに手を打つタイミングはいくつもあったように思うんだ。
果たして、保健所の指導は適切だったのか。
調査の結果「指導」というかたちをとったのなら、その後の見守り体制はどうなっていたのか。
1度の口頭注意だけで済む案件だったのか。継続指導は必要なかったのか。
もっと行政を強化する必要があるように思うし、虐待を疑う通報があったところで、断られたため家の中に入れなかったとあるけれど、虐待って断られたから入れなかったというかたちで終わりにしていい案件ではないと思う。
ここで出てくるのがこの「ペット」という呼び名。
ペットは所有物だから、飼い主(所有者)が了解しなければ手が出せない。という法律。
じゃあなんで物なのに、虐待の通告があるの?
みんな所有物として見ていないからだよね?
そこで府警と保健所の連携機能、それから弁護士なんかも介入することはできなかったの?
きっとこれまでの経過を精査すれば、今後どうすればいいのかという答えがでてくると思うんだ。
こんなことが必要だった、でも法がネックになって動けなかった。
だから、殺処分はある程度許容が必要だ。
それじゃ本末転倒だと思います。
法がネックになって動けなかったのなら
法改正をするためにどんなことができるのかを
誰かと一緒に考えたい。
そのために動いている人を今私は応援していきたい。
そのために自分なりにできることを見つけたい。
自分が少しでも携わった命には、必ず責任が生まれます。
犬や猫を虐待者に預けた人はきちんと見定められてなかった。
自分の都合しか考えていなかったと思うのです。
そもそも人と人は1度会っただけでその人がどんな人なのかは計り知れません。
私を含め人はいろんな顔を持っています。
親に見せる顔、恋人に見せる顔、友達に見せる顔、先生に見せる顔。
それと同じで、虐待者は私たちに見せる顔、友達に見せる顔、お役所に見せる顔、そして動物たちに見せる顔があります。
接触者の数だけ顔があります。
だから、いろんな人とコンタクトをとって情報共有する必要がある。
預けたら預けっぱなしは絶対だめで、その後も経過を追う必要があるのです。
しかも、口頭だけではなく、現認しなくてはダメです。
写真や言葉だけでは、人はどんな仮面もかぶれるのです。
現実問題、難しくても諦めることは絶対にいけないと思うし
命に携わるならそれ相応の覚悟が必要なのです。
野良猫は身篭った子を殺されます。
手術を行う獣医さんはやむなく何十頭も殺します。
心も体もすり減ります。
だから野良猫をひとりでも多く救いたいと願うのは間違いなのでしょうか。
これでも生態販売するために生み出すことは必要なのでしょうか。
うちの麦やパトラはいまだに時々トラウマで苦しんでいます。
買う命を減らし、少しでも野良から家に入れる子を増やしたい。
数年前は、私も知らなかった。
だけど、知る前と知った後、確実に意識は変わったから
野良猫の現実をこれから少しずつ人と共有させていただきたいと思っています。
だから、今できることがないと思う人は
この現実を誰かと共有してほしい。家族でも友人でも、ご近所さんでも親戚でも。
この問題に目を向ける人を増やしてほしい。
そして、一緒に暮らす命があるならば、最期まで優しさで包んで幸せにしてほしい。
私もいつか事故で命を落としてしまったり、病気になったりするかもしれない。
それでも命ある限り、精一杯命と向き合って共に生きたいのです。
私は現実するのが難しく課題が山積みだとしても、殺処分0野良猫0を諦めてはいけないと思うし、口に出してこの世に訴えていかなくてはいけないと思っていて。
そして動物たちが苦しむような環境は断固否定していかなければいけないのです。
そもそもその環境にすることが間違えてる。
その環境になる前に、行政や人に助けを求めて共有していきましょう。
どうすることが最善なのか、一緒に考えていきましょう。
人の虐待だって動物への虐待だって、終わりのみえない今という現実とともに、無くさないといけないという意識で戦いこの世の仕組みをより良い方向へ変えていかなければいけないのです。
きっと、いろんな意見があっていい。
私の意見がすべてじゃなくて、命と向き合う意見はたくさんあるはずで
そうやってひとりひとりが命と向き合い受け止めて議論して、今を変えるために動くことが
動物たち、私たちの未来をより明るいものにするのだと、信じています。
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